「アイラブユー」


 さようならをしましょう。

 にこ、と作り笑顔をして手を振るよ。振り向いたらそれでおしまいだ。最後に見る笑顔は汚らしい作り物の方がいい。細部まで完璧に笑ってみせよう。先にあたしが後ろを向くよ。精々君はあたしの後ろ姿を数秒眺めて唾を吐きかければいい。

「四十二円ですってよ、奥様」
「買えばいいのに。億万長者なんだから」

 あなたを好きでいるためのさよなら。ずっと好きでいたいから。
 あなたが変わってしまってもだいじょうぶ。わたしの中のあなたは、ずっと好きなあなたのままだから。

 溜息は嫌だな。迷信があるだろ、悪魔が云々ってさ。君がもしあたしの後ろ姿に向かって嘆息を吐けば、あたしは再びくちびるを上下に動かしてその言葉を言わなきゃいけなくなる。そしたら折角みすぼらしく別れたのに、無駄になってしまう。

「そういう偏屈な考えがインフレを加速させるのダ。大体金は天下の回りものって言ったってちっとも回ってないジャマイカ。富裕層はどんどんと裕福になり格差が広がり結局平均値は昔からちっとも変わらん」
「あら、ちょっとまともな事言ってる」

 思い出だけでも生きられると思いました。もう充分いろんなものを貰ったので、すてきなものがたくさんたくさんあるんです。胸に手をあてれば、あたたかくなるんです。だからそう信じてみました。

 ドラマの別れるシーンなら必ず雨が降っている。雨に濡れた男女がしんみりした雰囲気を出すんだよ、名残惜しそうにさ。そんなに後ろ髪を引かれるなら、駆け寄って抱きしめてそのまま遠い国へでも逃亡してしまえばいい。別れる自分に酔っているのなら、他の恋人にいずれ刺されるさ。

 それもいいかもね、なんて思った。君に刺されるのは少し、魅力的だ。
 これからの人生に君の姿がないのかと思ったらそれもいいかもね、と思ってしまったよ。万が一生還しても傷跡に君を見つけるだろうから。いや、でも、マゾヒストじゃないから。多分さ、うん。……多分ね。

「しかしこれが百均に行くと一個三十三円強に化ける」
「百均行くの? 指名手配のビラ貼ってあるのに?」
「三個で百五円! なんたる詐欺商売、ぼろ儲け。昔からの駄菓子店など都市部から追いやられて細々と運営しているというのに、シャッター街の一部と化してしまっているのに、都市部に大規模で運営している百均の方が九円近くも安く売れるというのは最早余裕を通り越して老舗への嫌がらせとしか思えませんな」

 一度きりの笑顔だけで、百年くらい生きられる気がしました。
 どこまでもいつまでも走ってゆけると思いました。何が起きてもだいじょうぶだと思えました。

 君から貰った錯覚を後生大事にしていくさ。おそらく他人が指差し嘲笑うだろう。見てみろ、泥団子をダイヤモンドと勘違いしている! しかしそんな事はどうだっていいのだ。他人が見て笑えるポイント等どうでもいい。寧ろそんなものは話の種にくれてやればいい。それはあたしにとってはダイヤモンドよりも価値があったし、泥団子よりも汚穢すべきものであることに変わりはなく。

「買うの? 買わないの?」
「そりゃ買うよ」
「九円高くても?」
「十円高くても買うさ」
「ひねくれもの」

 その感情に間違いはなかったけれど、ゆいいつ間違いを指摘するのならば、だいじょうぶだと思えるのは瞬間的なものだけで、あなたの体温を思い出しながらわたしは決意するのです。
 生きてやります、と。

 どれだけの災難が身に降りかかろうとも、どんな目に遭わされても、生きてやります。
 この口はおこがましくもさようならを発したのですから、あなたに別れを告げたのですから、わたしはこの肉体のすべてを駆使して酷使して、憎たらしくおぞましい精神を連れて、なにがなんでも生きてやります。

 一世一代の決意を美人さんに言ったら鼻で笑われてしまいました。居酒屋を二桁程梯子している最中だった所為だったからかな。ま、そりゃそうだ。二十年近くも同じスタンスで居られる訳が無いと勘違いしてるんじゃなくてさ、美人さんは知ってるんだよ。三分の一くらい? 少ないって、充分だよ。それ以外は一ミリたりとも理解しなかった。安穏と日々を過ごす事と何が違うのかと問うたからぶん殴ってやった。

「トヲコさんなら一個一万円でも買いそうね」
「そこまでインフレしたら国買う」
「期待しておきます。恐怖政治で独裁国家。後継ぎも決まらないまま暗殺のパターン」
「御心配には及びますえん。なぜならわっちを暗殺できるのはれんたんだけだからでーす」

 なあ、どうしてだろうな。
 どうしてあたし達の別れの日に雨は降っていなかったんだろう。どうしてあんなに晴れていたんだろう。目の痛くなる程空は青くて澄んでいた。もしもの世界があるとすればあたしは事前に雨雲を発達させておくだろうな。そしたらオプションで雷も鳴って悲壮感アップするだろう。でもあの日は晴れていた。

 とても、晴れていた。

 アイラブユー。(さようなら)(もうあなたがいなくてもだいじょうぶ)



(09/08/23)