「愚者の美学」


 むかついたんだよ。
 聞き慣れない台詞は思ったよりもすとん、と胸の底へ落ちた。もっと違和感があると思っていた。理屈もへったくれもない感情だけの言葉なんて似合わないと思っていたのに、聞いてみないと分からないものだ。こんなにも素直に聞こえる。蓮子は顰めた顔を戻して溜息交じりに微笑んだ。

「もっといろいろ理由があるんだと思ってた」
「ありますよう。いろいろいろいろありすぎて、最終的にむかついてしまったのでございます。腹が立ったので腹が減った、食ったら戦じゃ、あんちくしょう!」

 上手く割れなかった割り箸を噛みながらトヲコさんは天高く腕を突き上げた。正常な理屈が通らないというのは百も承知で、そしてその不可解な理屈こそが彼女にとっての正常な世界であることには違いない。日常から逸脱していれば逸脱している程近付いていくので、自分の立ち位置を見誤ればどうなるのかなんて目に見えている。

 きっとわたしに求められていることなんて極僅かな事で他愛もない事。でもそれはわたし以外には決して出来ない。見誤らず見失わない、誰にも出来ない物の見方。それが案外気に入っていて心地好くて、でも威張れる話ではない。わたしはどんなに転んでも桜条の名を捨てないし、トヲコさんの味方になる訳でもないのだから。

「そんなに腹が立ったの?」
「れんたんはむかつかなかったのけ?」
「確かに気に食わない類の人たちだけど、あれくらいの出来の悪い人なら今までだって幾らでも居たじゃない。今回に始まったことでも今回に限ったことでもないでしょう」

 まあな、とトヲコさんが頷いた。頷いたついでに唐揚げを食べた。賞味期限の切れた弁当は安値で買えるけれど、昔は配ってくれたんだよ、タダで! と力説するトヲコさんを見ながら、あなたの節約思考にはたまにうんざりするわと毒を吐いたのを覚えている。中央の梅干を避けながらご飯を食べている。

「最初はそうだった、無論、そういうものだったと知ってるからこそって面もある。しかーし、我慢ならなかったのはそれからだ。それから、だ!」

 今朝はひどい濃霧で、目前の視界すら奪われてしまうほどだった。隣に立っていたトヲコさんさえぼんやりと霞んで見えたのに、トヲコさんの声はおどろおどろしくわたしの胸に刺さる。あいつら。横顔はきっと冷徹で怒りを帯びていたのだろう、見えないのでさっぱり分からないけれど。口から煙と火を吐いていてもおかしくない、見えないけれど。覚えてるか、あいつら。わたしが誰の事と浮ついた気持ちで言えば、忘れるなよと悪党っぽい捨て台詞。でもそれはただの悪党ではなくて、とびきりの獣の声だった。

「同じにしやがった。連中とあたしを一緒にしやがった」
「見た目は同じよ。金の亡者であくどいこと専門職だもの」
「奴らには恥も外聞もないんだ。そんな連中と一緒にされるのは少々癪に障る」

 首を噛み切る獣の牙で、心臓を射抜く獣の目で、忘れるなよと濃霧の中でつぶやいたトヲコさんは梅干を食べた後に戦へ赴くのだけれど、わたしはその背中を見ているだけだった。言うなれば今日これ以上巻き込まれるのは御免だったのだけれど、正しくはわたしもそういう連中の一人な訳で、大きな枠で括ってしまえばみんなそういう悪党の一部分になってしまうということ。トヲコさんが幾ら保とうとするプライドだって、きっと他人から見れば生ごみに違いなくて、他人が守ろうとする大切な何かもトヲコさんから見たら虫けらなんだろう。

 だからトヲコさんは意地でもその美学を守りたいのだろう。何度撃ち殺されても立ち上がってくる死霊のように、何度打破されても新しく考えて論破しようとする。時には行動したりする。こうやって口から煙を吐いて、オレンジ頭を振りかざして君臨する、だって彼女は桜条透子なのだから。とびっきりの愚者なのだから。



(10/07/14)