アリスは色を知らない少年だった。



中空回廊からの展望





『孤独とは、港を離れ、海を漂うような寂しさではない。本当の自己を知り、この美しい地球上に存在している間に、自分たちが何をしようとしているのか、どこに向かおうとしているのを知るためのよい機会なのだ』 − アン・シャノン・モンロー

 アリス少年の部屋の施鍵が外されたのは、アリスが十四の誕生日を迎えた明け方だった。アリスは自室の窓から見える景色がこれ迄すべてだと感じていた。木々が揺らぎ風がそよぎ光が降り注ぎ、恐らくあの中でくるくると曲も無く踊る事等胸の中に秘めた儘で過ごすものだと信じ切っていた。明け方の空は雲が裂ける様に光を齎した。朝早くに起床した時だけ見える淡い光をアリスは好んでいたが、その色が曙色だとは知らなかった。アリスは空の生まれる色だと信じて疑わなかった。
「お早う御座います、お母様」
「お早う、アリス」
 アリスは床に額が付きそうな位頭を下げて、母に謙遜を表明した。それは毎朝繰り返される決まりの様なもので、その後アリスは母の顔を見る事すら無くまた施鍵される音を耳にこびり付かせるのだ。その時アリスのこころは安堵では無く何か物足りなさを感じるのだ。
 だが今日は違ったようで、母はアリスの穢れの無い肌に触れ、顎を持ち上げて話した。アリスは初めて母の顔を見た。顔に幾重の皺を刻み込み、痩せた母の顔は今迄一度たりとも拝見した事が無かったのだ。アリスは驚いて母の指を振り切り、頭を床に打ち付ける様に下げた。その様子を見て、母は窓に叩き付けられる風の音の様なごうごうとした笑い声を上げた。
「アリス。今日は貴方に魔法を授けます」



grace.





 四人兄弟の末っ子のアリスは、一際美しかった。肌理の細かな肌は日焼けを知らず、ぱちりと開いた瞳は大きく輝いていた。その大きい瞳を縁取るのは女の子の様に長い睫毛。無駄な肉を知らないしなやかな肢体はすらりと伸び切っている。アリスはかちこちに固まった筋肉を解す様にゆっくりゆっくり食卓への歩みを進める。三人の兄も美しかったが、アリスは初めて触れ出した世界に対して恐怖心を感じていた。穢れを知らない肌に穢れを知らないこころは、他の兄弟のこころを酷く荒立てた。しかし三人の兄はそれを表に出す事等一切無く、微笑んでアリスを食卓へ招いた。アリスは兄達を見上げ、頬を引き締めて沈んでしまう程深々と礼をする。
「お早う御座います。兄様」
 一番上の兄は全てを抱擁する様なあたたかな笑みで応えた。
「お早う、アリス」
 二番目の兄は、アリスの穢れを知らない肌を舐める様に見つめた。
「お早う、アリス」
 アリスに最も近しい三番目の兄は、言葉の最後に意地悪な疑問を投げ掛けた。
「お早う、アリス。ところでおまえは魔法をもう貰ったかな?」
 アリスは目をぱちくりさせながら、重たくて到底上がらないだろうと感じていた頭を長男に上げられ、身体を次男に抑えられ、無理矢理席に着かされた。アリスは初めて母以外の他人に触れられた肌に、虫に身体を這いずり回られる様な不信感や不安感を感じながら、食卓の上に置かれた何人分もの食物に又もや目をぱちくりと瞬く。アリスの大きな瞳は初めて見る光景に興味を示していた。だが如何やって手を付ければ良いのか判らず、訊く事すら儘成らず、結局は朝食に一口も付けなかった。
「そうだよ、アリス! 君はどんな魔法を授かったの?」
 各々の位置に腰掛けた兄達は興味深そうな視線をアリスに送る。一番上の兄が最初に開口すると、アリスは喋り難く成った乾いた唇に唾を付けて舐めた。たったひとつの艶かしいその仕草に、三人の兄弟は釘付けに成った。アリスは一際美しかったのだ。
「駄目よ。未だアリスは魔法を覚えてないの」
 丁度自分の向かいに居た母がそう口にする。
 アリスは魔法を授けられた覚えが無かったし、何かを覚えろと急かされた訳でも無かった。アリスは思わず狼狽えてワイングラスを落とす。直ぐに謝罪の意は口から出ず、ひゅうひゅうと喉から風が吹き出すだけだった。ワインは床に染み込んで割れたガラスを拾おうとアリスは手を伸ばす。直ぐ様下女がアリスの行動を制止させた。床に広がるワインの色は猩々緋だったが、アリスは鮮明に冴えた血の様だ。と感じた。
「アリス。貴方はこの家を出るのです」
 十四歳に成ったアリスに告げられた言葉は過酷なものだったが、アリスはその過酷さに全く気付かず、お母様の云う事はすべて正しい事だと信じていたので、アリスは首を千切れんばかりに縦に振るった。幾重もの皺が刻まれた顔から発せられる母の言葉は、今迄上から喋りかけられていた言葉そのものなのに、何処か違和感を感じてしまうのは、今正に母を真正面から見ているからなのだ。とアリスは納得する。
 席を立つアリスに三人の兄から一言ずつ云われるが、アリスはその辛辣さを知らない。
 一番上の兄はあたたかな微笑を携えてこう云った。
「良い機会を貰ったね」
 二番目の兄は紅茶に口を付けながら、再三アリスの肌を見つめる。
「アリスは美しく育つだろうね」
 アリスに最も近しい三番目の兄は、言葉の最後に又もや意地悪な疑問を投げ掛けた。
「戻ってくるんじゃないよアリス! ところでおまえは色ってやつを知っているかな?」
 アリスはゆるゆると首を横に振るった。それを見て三人の兄は一斉にわっと騒ぎ立てた。生まれて初めて立った食卓が死んでも入れぬ食卓だとは知らぬ儘アリスはその場を去った。途中グラスの破片で切った指先に電球に触れた時の様な熱い痛みが走る。アリスは傷に気付いて舌を突き出してちろり、と舐めると、何とも云えない味が咥内に広がった。



過去が横たわる部屋





 アリスは太陽を見た事はあるが、陽の光の下で踊った事は無かった。
 アリスは雨雲を見た事はあるが、生ぬるい雨に犯された事は無かった。
 アリスは風の声を知っていたが、突風に攫われた事は無かった。
 この部屋でアリスは眠っていたが、夢を見ない日は一日たりとも無かった。夢ではアリスは何処にでも飛んで行けた。何時もアリスの足には足枷が付いていたが、アリスを空へ空へ昇らせる力はそれより何十倍も強かった。だが何故自分が何時も夢の中で飛んでいるのか理解出来なかった。足枷は苦渋では無いし、飛んでいる時は何時も落ちやしないか不安で不安で仕方がなかった。だからアリスは夢を見るのが嫌いだった。だが現実はアリスを何度も夢の世界へ運んで行った。その度にアリスは歯痒い思いをするのだった。
 窓から外を見るともう太陽は上の方に昇っていて、アリスは急いで支度を始めた。とは云ってもアリスが外の世界へ持っていけるものは殆ど無かった。この家はアリスを生かしてくれてはいたが、暮らさせてはくれなかった。アリスは数える程しか無い少ないお金を紅茶の缶に詰め込んだ後服で巻き込んで鞄の中にひっそりと隠す様に入れた。
 それから何度も何度も貫き通す位見続けた少年の写真を大事に大事に入れた。彼の名前は知らない。昔、母がアリスに渡した唯一の写真だった。その時母は云った。「彼は魔法すら奪われたのです。アリス、桜鼠に魔法を奪われては成りませんよ」。服も肌も髪も目も色を失っている少年の名前は未だ知らない。彼は綺麗な花の中で微笑んでいた。淡い紅花染で褪めた退紅と云う色を知らなかったアリスは、向かいの家に一年に一度咲く花の色に似ているな。と思ったのだ。色を失った彼と淡いその色は、素晴らしいパートナーの様に思えた。

 彼の名はイヴと云う。
 すべての色を桜鼠に盗られた、可哀想な少年だ。

 アリスは未だ彼の名すら知らない。



gracious.





 その人形は妙なものだった。
 幼い頃に母からプレゼントされた紳士の様な人形はアリスの格好の話し相手と成るべきものだったのだが、アリスはその人形で遊ぶ事を拒絶した。母には判らぬ様にアリスは振舞っていたが、決まって寝る時間に成ると、人形は鳩でも飛び出そうな大げさな帽子をくるりと回して優雅にステップを踏み始める。ととん、ととん、ととん。

 アリスがその人形と全く同じ人間を見た時驚愕の意を表すのに何を用いれば良いのか判らなかったのは事実だ。アリスは酸素の足りない魚の様に口をぱくぱくさせながら思わず人間を指差した。そしてはっとして指を自身の後ろに隠した。人様を指差しては成らないのです、「いいですか、アリス」。母の声がアリスの中で何度も何度も蘇る。
「おや、アリス。家出かね?」
 そうして人形とそっくりな人間がからかう口調で喋ると、アリスはもう吃驚してしまって呼吸の仕方すら忘れる程だった。帽子に隠された山葵色の眼を見て、その色を知らなかったアリスは、もうすぐ雨を降らせる、雨を沢山積んだ雨雲の色だと感じた。
「おや、アリス。私を知らないのかね?」
「御免なさい。僕は未だ家を出たばかりなのです」
「おや、アリス。未だ君は魔法を使えないのだね?」
 アリスの心臓は緊張で張り裂けそうだった。
 魔法を使えない事がこんなにも恐ろしい事だったなんて! アリスはどきどきする心臓に片手を当てて、身体を縮めて脅えた様子を見せると、人形とそっくりな人間は頭に被っていた大きな大きな帽子を脱ぐと、その中から未だ活きの良い魚を出してアリスに見せた。アリスは生まれて初めて見たぴちぴち跳ねる生きた魚に興味を示し、細い指先はぬるりとした魚に触れようと興味が先を行く。だが人形にそっくりの人間はそれを許さない様で、アリスの指が触れそうに成った途端魚を煙の中に消してしまった。置いていかれたアリスの指先は空中を漂い、それを可笑しそうに人間が嗤った。
「おや、アリス。触りたいなら自分で出したらどうだね?」
「御免なさい。僕は未だ魔法が使えないのです」
「おや、アリス。私を知らないのかね」
 二度目の同じ質問は少しばかり怒気を含んでいたのだが、毎日毎朝母の一声のみで母のアリスに対する感情を読み取っていたアリスにとってそれは効果的だったようだ。アリスは知らない間に指を口元に持っていって甘噛みしていた。アリスのくるっとした瞳は興味で満たされているのに、鞄を持っている方の腕は緊張で動けない。アリスは問う。
「貴方の御名前は何と云うのですか?」
「おや、アリス。私は君のずっと直ぐ傍に居たのにね?」
 ととん、ととん、ととん。
 人形そっくりの人間が踏むステップは矢張り人形の儘で、アリスは緊張の糸に囚われて動けなくなった。ステップは優雅に踏まれ、踊りはなだらかに滑る様に行われる。それはアリスが毎晩人形を通じて見ているものと同じものだった。
 奇妙な既視感に囚われながら、アリスはもう一度問うた。
「貴方の御名前は何と云うのですか?」
 ととん、ととん、ととん。
「おやおや、アリス。君はとんでもない間違いをしてるようだね?」
 華麗で優雅なダンスを終えてから、奇妙なトーンでそう云った。
 アリスはすっかり魅了されてしまって、ぽかんと開いた口が塞がらなかった。人形では何時も見ていたけれど、生身の人間が踊るのとはまた違うようだ。生まれてから十四年、母の顔をちらりとしか見ず、先刻初めて兄達に逢ったアリスは、未だ何も知らなかった。太陽が如何して毎朝昇るのかも、雨が如何して降るのかも、風が如何して木々を倒して吹き荒れるのかも、母が何故魔法を授けてくれないのかも、何も知らなかった。魔法が覚えられないのはアリスの所為だ。とアリスは信じ込んでいた。母はいつだって正しいのだから。



耐えられないものなんてないし、絶えることのないものもきっとある





 歩いていた筈の歩調は段々と短く成り、アリスは駆け出した。耳の傍をごうごうと鳴く風の音はアリスにとって感情を昂らせるには充分過ぎる程だった。目まぐるしく光がうねってアリスを歓迎している。目が焼き付きそうだった。目を閉じたって其処は明るいのだから! この儘走って行けば太陽にだって手が届くのでは無いだろうか。アリスは無知で純粋で愚かだった。足は直ぐに限界を向かえ、肺の中の酸素がすべて無くなってしまったかの様に呼吸は荒くなり、アリスから生じている長く成ったり短く成ったりする影と云うものに恐怖を覚えた。アリスが走るのを辞めたのは丁度太陽が真上に昇った頃だった。

 アリスは喉の渇きを覚えた。
 それは屋敷を出てから初めて感じた違和感であり、アリスはポケットの中を探って何とか唾の枯渇を回避しようと思案を廻らす。だが残酷にもアリスの掌に見出せたのは銀色の硬貨が一枚だけだった。アリスは鞄を漁り、振るとジャカジャカと良い音のする紅茶の缶を取り出した。この缶はアリスが唯一欲したもので、母に頼んで空き缶を譲ってもらった程だ。その時もアリスは額を地面に擦らんばかりに頭を下げて懇願したのだ。
 お金よりも圧倒的にガラス細工の破片だとか途中で拾った石等が多く入っている紅茶の缶をアリスが開けようと指先を曲げた際に、唐突に声が聞こえてこなければアリスは幾許かの水を手にする事は出来ただろう。
「此処に何しに来たんだ? アダムならもう居ねえぜ」
 その時のアリスの興奮を誰が知る事が出来ようか。アリスは思わず手を止め指を止め、思考すら止めて声の主に振り返る。その時間は永遠の様に感じたけれど、鼓動ひとつ分にも満たぬ瞬間だった。声は果物ナイフの様に尖がっており、今にも切り裂かれそうな程に磨きを増している様な不思議な牽制の声だった。しかしアリスはその姿に釘付けに成ってしまい、息も忘れて魅入ってしまった。主は服も肌も髪も目も、去年の寒い夜にしんしんと降り積もった結晶に似た色をしていた。アリスにはイヴが白いと云う事すら理解出来なかった。イヴの奪われた色は、それはとても美しいものだと勘違いしていたからである。
「何だ、陛下の所の末っ子か」
「陛下?」
 イヴは色の奪われた髪をがしがしと掻き毟りながら面倒臭そうに雑に吐き棄てた。
「アダムならもう無理だぜ。役所に抗議したが桜鼠にゃ誰も敵わねえ。樹齢千年も超えるのに、あいつ等あっさりアダムを引き渡しやがった」
「アダムって?」
「おまえ、アダムを知らねえのか?」
 イヴは色の奪われた目をきょときょとと瞬かせてアリスを正面から見た。アリスは自分の鼓動がイヴに聞こえまいか心配でしょうがなかった。写真でしか見た事の無い彼の前に立っている自分は何処か可笑しくないだろうか。妙な仕草をしていないだろうか。妙な表情をしていないだろうか。ネクタイは曲がっていないだろうか。アリスは緊張の糸に絡まれて身動き出来ずに、首だけを縦に動かした。肯定の意だ。アリスはアダムを知らなかった。それがイヴには酷く衝撃的だった。イヴは微かな声で云う。「すごい」、アリスが訊く。「今、なんて?」。
「すごい、すごい! アダムを知らねえ人間なんて始めて見た! 凄いな、えーっと……」
「アリス」
「そう、アリス、凄いなアリス! アダムを知らねえで良くもまあ生きてたもんだ!」
「アダムとは、どんな方なのですか?」
「アダムはヒトじゃねえ。樹だ、どでかい桜の樹さ。今じゃ桜鼠に盗られちまって花も咲かせられねえ。耐えられねえよなあ、畜生。何だって桜鼠は他人の大事なもんばっか盗んでいきやがる。だけどな、そうやって他人の大事なものばかり盗っちまってると、いつしか自分の大事なもの盗られた時に気付かねえんだ。だから俺は好機を窺ってるんだぜ。だけど此処から見えるものっつったら大したもんは無え。今迄はアダムが傍に居てくれたから俺は区切られた空をずっと眺めてたもんさ。だが今アダムは居ねえ、畜生。遣ってられねえよなあ」
 妖しげに光るイヴから目が離せない事にアリスは気付いて、顔から火が出そうに成る程赤面した。身体中の血液が顔に集まってしまったかの様で熱くて堪らない。そんなアリスを見兼ねてイヴが問う、「どうした?」。
「御願いがあります。妙な事かも知れません。それでも僕は御願いがしたいのです」
「応。陛下の末っ子の願いなら考えてやってもいいな」
 アリスは空が区切りに近付いて死ぬ時よりも真っ赤に成りながら、しどろもどろに云った。
「僕の御友達に成って頂きたいのです」



why / you / next





 遣ってられねえよなあ、畜生。それがイヴの口癖だった。
 泥だらけの仕事を終えて、身体全体を泥で染めてきたイヴは又もや云う。「遣ってられねえよなあ、畜生」。アリスはその様を見て毎回胸に込み上げるものを口にはしなかった。イヴは泥の付いた手でその儘鼻を弾くものだから、イヴの失った身体に色が映えるのだ。
「何をしていたの?」
「色んな場所を引っ繰り返して、アダムが戻って来た時の為に良い土を探してるのさ」
 煤竹色を知らないアリスは、毎日毎日イヴが何処かから色を持って帰ってくるのか一抹の不安を抱えた。「遣ってられねえよなあ、畜生」。「いいですか、アリス」。イヴの口癖と母の口癖が同じ様にアリスの頭の中に響く。其処でアリスは初めて知る。あの家、屋敷の中で母と過ごした時間は、間違いなく満たされていたのだと云う事。

「それよりおまえは魔法を探してるんじゃ無かったっけ?」
 イヴは思い出した様に土を捏ね繰り回しながら云った。アリスはどきりと心臓が緊張するのを知って、イヴと同じ様に土に触れてみる。冷たくて、硬かった。
「僕がきちんと魔法を覚えられないからいけないんだ。色を知らないのもきっとその所為だ」
 アリスが心中の言葉を文章にして発すると、直ぐ様それは嘘だ。とアリスの脳が云った。イヴは大して興味の無さそうに、ふうん。と云った限り追求してこなかった。頭の中で何回も往復して吟味して練りに練っていた言葉と事実の筈なのに、声にして文にして発してしまうとそれは嘘に成ってしまった。アリスは知る。その様な事もあるのだと知る。だからこれからは安易な発言を控えようと注意する。そう云えば母は何時も云っていた。「いいですか、アリス」。その先を如何しても思い出せないアリスは項垂れた。
「何しょげてんだ?」
「…………如何して桜鼠は君からばかり盗るんだい?」
「何故ってそりゃあ……、何でだろうな。俺にも判んねえ」
 イヴはそれでも苦笑してアリスに話し掛けた。
「おまえはこれから如何するつもりなんだ?」
「え?」
「魔法を『覚える』ならこんな所で俺と喋ってちゃ駄目だ。もっとずっと広い世界を見て覚えなくちゃいけねえ。アダムは良く俺に云ってくれた、『不可能と思えたらもう一歩だけ進め』、ってな。俺はその約束を護ってるから桜鼠に何を盗られたって立ってられる。桜鼠にゃ魔法も盗られたけどな、俺は一度アダムから授けられてるから思い出せるんだぜ」
 イヴはシャベルの長い柄を片手でひょいと扱って見せる。
 その動作はイヴにとって大した事の無い普通の動作だったのだが、アリスにとってはイヴの動作は魔法の様に見えた。アリスは大きな瞳をぱちくりさせ、イヴの担ぎ上げたシャベルを興味深そうに眺めた。魅入っているアリスをからかう様にイヴの笑い声が通り過ぎた。生まれた時より外界とは縁の無かったアリスと、桜鼠に因って外界から切り離されたイヴは良いパートナーに成れそうだったが、イヴは未だアダムに固執していた。アリスの知る限りイヴはアダムの為に毎日働いていたし、寝る暇も惜しんで何か調べ事をしている様だった。

 ある朝アリスが目覚めると、イヴは嬉しそうにアリスの傍に駆け寄っていった。「おはよう、アリス」。アリスは同じ様に返した。「お早う、イヴ」。イヴは最大の微笑みを表す為に一度顔を思い切りくしゃりと縮めてから、ぱあっと晴れ渡る様な盛大な笑みを作る。
「すごい、しんじられない!」
「何がなの?」
「信じられないんだ! あんなに気紛れな桜鼠が未だアダムを生かしているんだなんて! 俺の色は全部棄てちまったらしいけど、アダムだけは未だ棄てられてないんだ。昨日の夜中に俺の所に桜鼠が着て云いやがった、アダムは未だ生きてるんだ。って!」
 その時アリスの中に生まれた感情は奇妙な錯覚だった。
 写真の中でイヴとアダムは寄り添う様に写っていた。それにイヴはアダムが居なくなった後でもずっとアダムの事を想い続け、アダムの為に良い土を集めてアダムが帰って来れる様にずっと準備をしていた。だが今興奮しているイヴはアリスに語り掛けているにも関わらず、アリスを貫通してアダムの姿を思い描いていた。不可抗力だと判っていても、アリスにはイヴの意図が理解出来なかった。目の前に居るのはアリスなのに。目の前でイヴの話を聞いているのはアリスなのに。だがイヴはアリスを貫通して桜鼠やアダムを見ていた。



真夏の白嶺





 イヴに因って明らかにされた桜鼠の隠れ家には立派なビニールハウスが備わっていた。アリスは迂闊にもイヴの制止を聞かずに入ってしまったが、幸い桜鼠は外出中の様で、桜鼠がアリスとイヴの目の前に出て来る事は無かった。イヴはそうと判れば走り出し、アダムを探そうと一心不乱に色を失った髪を振り乱して駆けて行った。アリスはその様子を見ながら母の言葉を思い返した。「いいですか、アリス。彼は魔法すら奪われたのです」。
 アリスは生暖かいビニールハウスに足を踏み入れた。わっと広がる花の匂いに思わず顔を顰めた。花の匂いは嫌いでは無いが、噎せ返る様な濃い花の匂いは慣れて居ない。花は今か今かと咲き誇る。其処には世界中の薔薇が揃っていた。オールドローズとモダンローズの境等関係無い様に、オールドローズの元に成っているロサ・フェティダから、葉に香りのあるヘーベス・リップ、フレンチ・ローズと云われるカーディナル・ドゥ・リシュリュー、ダマスク香と呼ばれる代表的な香りを持つセルシアーナ、庭園のアーチ等に使用されるつる薔薇のアンジェラ、一輪咲きのブルー・ムーン、別名クラスター・フラワードと云われるマーガレット・メリル。
 アリスはじんわりと汗が滲むのを感じて、直ぐ様ビニールハウスから出た。
 汗なんて掻いたのは初めてだった。アリスの整った鼻の上に汗が浮かんでいる。

 まるで真夏の様なビニールハウスを出て一転、寒さが肌に容赦なく突き刺さる。
 アリスは樹の上に花弁の厚い一重の白嶺を見つけた。そして白嶺が咲いていた椿の樹にはぽっかりと穴の開いた木箱が置いてあった。アリスは小首を傾げながらそれを見やる。中から鳥が出て来た時には驚愕して伸ばした手を弾かれた様に引っ込めた。遠くでイヴの声が聞こえる。アリスは本心とは別に足は動くものだと知る。イヴの声は何処か暗かった。



not only, but lonely.





「遣ってられねえよなあ、畜生」
「如何したの?」
 アリスは何時もの口癖を何処か悲しみと憂いに浸けて口ずさむイヴに駆け寄った。イヴは小さな花弁をひとつ、壊れ物を扱うかの様な力で以って掌で大事に包み込んだ儘、立ち上がれずに呟いた。「アダムだ」。アリスはアダムを見た事が無かったので直ぐ様頷けなかったが、イヴは間違いなく感じていた。これはアダムなのだ。と感じていた。
「如何してアダムだって判るの?」
「枝一本に成ろうが俺にはアダムが判る。畜生、アダムが散っちまった!」
 遠くからバイオリンの音が聞こえる。
 イヴは垂れた目をアリスに向ける。アリスは鏡を見た事が無かった。だからアリスは自身がどんな姿をしているのか知らない。アリスの眼は鮮やかな黄金色をしていた。どんな宝石もアリスの眼には敵わない。対してイヴの眼からは色が盗られた儘だった。イヴはアリスに対して猛烈な嫉妬を感じざるを得なかった。爆発する様にイヴが叫んだ時、アリスは黙っていた。
「アダムが居ない、アダムはもう居ない! 遣ってられねえよなあ、畜生。アダムはアダムの魔法で飛んで逝っちまった、だからもう帰ってこない! ぜんぶ、桜鼠の所為だ! あいつが全部悪いんだ、あいつさえ居なけりゃ!」
 イヴが感情の儘に立ち上がり、掌の花弁を握り締め、色を失った目に爛々とした炎を湛えて桜鼠の元へ行こうと敵意を泳がせた。「初めっからあいつが居なけりゃ俺は何も失わずに済んだんだ!」。イヴは云う。色もアダムも何もかも失ったイヴが叫ぶ。こんなにも激昂している人間を見た事の無いアリスは如何して良いのか判らなかった。アリスは何かを得た事も無ければ失った事も無かった。遠くからバイオリンの音が聞こえる。「いいですか、アリス」。再度母の声がアリスの中でスパークする様に蘇った。「桜鼠に魔法を奪われては成りませんよ」。如何して桜鼠は魔法を奪うの? 如何して桜鼠は魔法を奪えるの? アリスは未だ信じていた。魔法を使えないのはアリスが悪いからだ。イヴが魔法を使えないのは桜鼠に盗られてしまったからだ。盗り返せないのは僕達が未だ弱いからだ。そうアリスは信じていた。
「おまえ」
 唐突にイヴがトーンを下げてアリスに問う。アリスはきょとん、と首を傾げた。
「空飛ぶ魚の夢を知ってるか?」
「知らないよ。そんなのあるの?」
「なら虹色の魚の夢は知ってるか?」
「知らないよ。僕は何も知らないんだ、『にじいろ』って何だい?」
 イヴは大きな大きな重たい溜息を吐き出して、頭の奥のその又奥をきゅうと捩じ上げて、色を失った指先で必死に魔法を唱えようと思案を廻らす。イヴはその過程の中でアリスを貶す様な口振りで云った。「だからおまえは魔法が使えないんだ」。云われたアリスは水を掛けられた様に一瞬びくり、と停止し、それから訊き返した。「今、なんて?」。
「だからおまえは魔法が使えないんだ」
 イヴは先刻口にした言葉と全く同じ言葉を繰り返して云った。
 その言葉は魔法の言葉の様に思えた。何故ならアリスの思考を停止させるには充分過ぎる程の力を有していたからである。イヴは、「遣ってられねえなあ、畜生」。と云った。まるで人形の様に動かなく成ってしまったアリスを不審に思ったのか、イヴは魔法を紡ぐ手を止めてアリスの傍に近寄る。アリスの身体からは幾つもの花の匂いがした。イヴは顔をくしゃりと歪ませてアリスを思い切り突き飛ばした。アリスは思い掛けないアクシデントに対応出来ずに、後ろにその儘倒れ込んだ。土のにおいが一斉にアリスを襲った。イヴの声も襲う。「だからおまえは魔法が使えないんだ」。「いいですか、アリス」。二人の言葉が共鳴してアリスの脳味噌を襲った。今アリスの眉は生まれて初めて歪められ、嫌悪感を抱いた。
「違う! 僕は、」
 「いいですか、アリス」。
「僕は、」
 「桜鼠に魔法を奪われては成りませんよ」。
「僕の魔法は……、」
 「おや、アリス。私を知らないのかね?」。

「僕の魔法は桜鼠に奪われてしまったんだ!」



架け橋





「僕達はね、その時気付いているべきだったんだよ。桜鼠の隠れ家に忍び込んだら如何やって逃げ出すのかも用意してるべきだったんだ。でもね、僕達は余りに愚かだったから、桜鼠が帰ってくるのも知らずに唯怒鳴り合い続けていたんだ。本当に愚鈍極まりないね」
「アリス、いつ迄そうやってるつもりだ?」
「如何したの、イヴ?」
 アリスは苗木に向かって独り言の様に呟いていた。過去を懐かしむ様な物云いにイヴは眉を歪ませた。その様子すらアリスには笑いの種だった様で、アリスは光の結晶の様な金色の瞳を窄ませて頬を緩やかに持ち上げた。美しいアリスの微笑みの前で、色を失っているイヴは恥ずかしそうに顔を逸らした。彼等は新しいアダムを見出した。アダムの最期の魔法に因って。

 桜鼠の帰宅に最初に気付いたのはイヴだった。
 ドアノブを回す音、ドアが開く音、魔法を唱える声。幸い家の死角に居たアリスとイヴは気付かれずに済んだのだが、この隠れ家から出る為には家の真正面を通らなければ成らなかった。イヴは事の重大さに恐れを抱きアリスを見やれば、アリスは自分の魔法が奪われた事を確認してしまい泣きじゃくり始めた。イヴはアリスの涙を止めようと必死に成って慌てたが、どんな魔法でもアリスの涙を止める事は不可能だった。その内声さえ上げて号泣しそうなアリスから流れ落ちる涙は、純粋無垢な宝石と成って辺り一面に散らばった。イヴは驚いて口をぽかんと開いた。ぽろぽろ、ぽろぽろ、アリスから零れ落ちた涙は宝石に成った。地面がチカチカと瞬いている様で、それは太陽の光を良く反射した。何色も、何十色も、何百色もありそうな色の数々にアリスは圧倒された。色を知っている人間でもきっとこの色だけは表現出来ないだろう。色を知らないアリス自身なら尚更だ。家の中に居た桜鼠が驚いて庭に飛び出してきた。そして云う。「おや、アリス。おや、イヴ」。ととん、ととん、ととん。そうしてアリスの周りに散らばった宝石を確認してから云う。「おや、アリス。いつの間に魔法を取得したのかね?」。
 アリスは吃驚して、ひっく、と泣きじゃくるのを止めて呼吸を止めた。
 桜鼠はアリスの涙から出来た宝石を愛おしむ様に眺めてから、熱い溜息を吐いた。
「おや、アリス。気付いていないのかね?」
「何云ってんだ、桜鼠。おまえ、アダムが散っちまったじゃねえか!」
「おや、イヴ。アダムの残したものに気付いていないのかね?」
 桜鼠の対応は最後迄丁寧なものだった。
 アリスははた、と気付く。桜鼠は初めから何も奪ってないのでは無いのか。イヴは初めから色を持って生まれてきた訳では無いのではないか。アダムは自分の死期を悟っていてイヴに知られまいと桜鼠と提案したのでは無いのか。アリスの頭の中にはぐるぐると様々な事が渦巻いていて、上手に言葉の整理が出来ないアリスはそれをイヴに伝える事が出来ないで居た。
「アダムが何を残したって云うんだ? おまえに、桜鼠に?」
「おや、イヴ。君は愛するものが死する時の痛みを知っているかね?」
 純度の高いアリスの泪の宝石は、桜鼠の掌で輝きを放っていた。

「アダムはね、千年以上も生き続けた立派な桜の樹だったんだよ。君のお父様に当たるのかな。僕はアダムを直接見た事が無いから、アダムがどんな色をしていたのかは判らない。知っていたとしてもその色を巧く伝えられないかも知れない。僕は僕が色を知らない事を知っているからね。アダムは最期に君と云う小さな遺品を残したんだよ。それを桜鼠が大事に大事に保管していてね。イヴがアダムの為に土をずっと弄っていた様に、桜鼠も君を生かす為に沢山の事をしたんだろう」
「アリス。褒め千切っても何も出ねえぜ」
 アリスは屈みながら未だ小さな苗木を撫でた。アダムの遺品だ。大きく成ればアダムに成る。
 そうすればイヴも喜ぶだろう。今だって本当は跳ねて喜びたくて仕方が無い癖に、イヴは冷静を装ってアリスをからかっている。色を失った髪を掻き毟りながら、時折表情に笑みを混ぜながら、イヴはアリスと、アリスの撫でている小さなアダムを眩しそうに眺めた。

「『イヴにだけは真実を伝えないでくれ』。おやおや、イヴ。君がそんなに愚かだとは知らなかったね? アダムは随分と賢かったようだ。こんなに愚かな子を育てていたのだから」
 アリスの足元に散らばった宝石はチカチカと瞬き、アリスを誘惑した。
 桜鼠は大きな帽子を脱いで、その中から苗木を取り出した。手品の様な仕草にアリスもイヴも言葉を失くして魅入ってしまっていた。桜鼠は云う。「アダムだね?」。イヴは首が千切れんばかりに縦に思い切り振りながら、桜鼠から苗木を受け取る。その手は微かに震えていた。
「『不可能と思えたらもう一歩だけ進め』。おや、イヴ。アダムだけは進んだようだね?」
「これ、これアダムだ。アダムだ、アリス!」
 興奮してアダムの苗木を見せるイヴに、アリスはゆるゆると首を横に振りながら、涙を流すのと呼吸をする間に途切れ途切れ懸命に云う。「僕には判らない」。それが今のアリスを表すすべてだった。呼吸の合間に出した声は掠れていて酸欠に成りそうな頭を動かしても巧い応えは出て来ない。アリスは思考を閉じる様にもう一度だけ云った。「僕には判らないよ、イヴ」。すべてが判らなくなっていた。誰が色を奪った? 誰が魔法を奪った? 誰がアダムを奪った?
「アリス、」
「おや、イヴ。願いを叶えられたのは如何やら君だけのようだね?」
「何云ってんだ、桜鼠! そんな訳、」
「おや、アリス。何だってそんな顔をしているのかね? すべてに気付いたならすべてに気付いた顔をしていれば良いものを、そんなにしょ気ている君を見るなんて陛下もきっと御立腹だろうね? 判っているなら、判っている。そう思いだけに刻んでおけば良いのだからね?」
 アリスは確かに感じていた。桜鼠は背負い込んでいる。皆の遣り場の無い怒りの矛先も悪意の切っ先もすべて自分に向けて、マジシャンの様に振舞いながらそれを他人に気付かせずに居るのだ。そう、桜鼠はマジシャン。トリックの達人。人を欺く事が得意な紳士。

「だからね、アダム。人は偏見や思い込みに因って悪者を仕立て上げてしまうんだろうね。但し、イヴの色が失われてるのは事実なんだ。だから僕は色を見つけたら真っ先にイヴにあげようと考えているんだよ、アダム。未だひとつだって見つけていないのだけれどね」
「照れるんだからやめろよ、アリス」
「君もこっちへ着てアダムに口付けしてあげれば良いのに」
「俺とアダムはそんな事しなくたって相思相愛だから良いんだぜ」
 今度こそイヴは照れ臭くなってひらりと身体を翻し、物陰に隠れる様に消えてしまった。けれどイヴがアダムを置いて何処かに行く訳等考え付かないので、アリスは小さなアダムを撫でながら目を細めた。慈しむ様に、愛おしげに。

 アリス少年は今、太陽の下で色を失ったイヴ少年と共に小さな桜のアダムを育てている。



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2006/05/14 了